
思考のインストール。
よくも悪くも、思考はインストールされて上書きされるものだ、と感じる。
特にそう思ったのは、知人から聞いた話がもとだ。
ある日、「Aさん」の奥さんが子供を連れて知人の職場に遊びにきた。奥さんは目鼻だちがはっきりしており、美人、と言われることが多そうな顔立ちだ。そしてAさんのお子さんは顔がAさんに似ている。
Aさんは職場の人に「奥さんに似たら良かったのにな~」と言ったそうだ。
僕はそこで違和感を感じた「本当にそう“感じているのか”?“思うようにされている”のではないか」ということだ。自分の愛娘、ただかわいいはずだ。その造形を、愛しているはずだ。
その顔をみて「奥さんに似たらよかった」と“感じて”いるだろうか。
僕はどこかで見聞きしたリアクションや思考の型が、脳に刷り込まれているのではないかと感じている。
例えばテレビやネットで美人の妻をもつお笑い芸人が子供について話すときに「いやー奥さんに似たらよかったのに僕に似てるんですよ」みたいなことを言ったとする。
それを見聞きすると「あ、うちも奥さんが美人だから奥さんに似たほうがよかったな」という思考を得る。
今まで、微塵もそんなことを思わず、ただ可愛かった娘。
知恵の実を食べて、裸という概念を得て恥を感じるアダムとイブみたいに、「美人に似たほうがいい」という概念を刷り込まれてしまった。
Aさんの脳には、その概念がインストールされてしまったのだ。
(もしかしたら、他者の目を意識して謙遜をしたのかもしれないが。)
電車の脱毛サロンの広告もそうだし、薄毛や、婚活、転職、何度も何度も触れることで「思わされている」ことが多いのではないか。
そうやって思考というのは見聞きしてるものから無意識にインストールされてしまう。本当に自分が「そう感じているのか?」ということを意識すると、少し楽になるところもある気がしている。